ジャニーズ事務所の重鎮で、俳優や司会者としても人気の東山紀之さん。
彼はどんな家族のもとで育ってきたのでしょうか?
実は、東山紀之さんの父親はロシア人の血が入っていてギャンブル好きで、母親と別れたあと、行方不明になってしまったのです。
東山紀之さんは、川崎のソープ街で産まれ、貧困に苦しみました。
また、芸能界に入るきっかけも、渋谷のスクランブル交差点でジャニー喜多川さんに声を掛けられたという奇妙な出会いだったのです。
今回は、東山紀之さんの壮絶な生い立ちや父親との関係、デビューのきっかけについて、彼が書いたエッセイ「カワサキ・キッド」をもとにご紹介します。
東山紀之の父親はロシア人?
東山紀之さんは、1966年9月30日に川崎駅のソープランドがひしめく地域で生まれました。
彼の父親は、ロシア人の血が入っているクオーターで、酒とギャンブルに溺れていました。
クォーターなので純粋なロシア人ではなく、東山紀之さんの曽祖父や曽祖母がロシア人ということになりますね。
東山紀之さんが1歳の時には、借金取りが家に乗り込んで畳に包丁を刺し、母親が土下座をしていた記憶が残っています。
その後も日本中を転々として暮らしましたが、東山紀之さんが3歳の時に両親が別れました。
父親はその後姿を消し、東山紀之さんは父親の名前も顔も知りません。
偶然見つけた父親の写真はとてもイケメンだったそうですが。
東山紀之の極貧生い立ちは?
母親と別れた後、妹と3人で川崎市桜本のコリアンタウンに引っ越した東山一家。
母親は美容院で働きづめでしたが、お金に困っていました。
東山紀之さんと妹さんは、近所で焼肉店をやっている朝鮮人の家に入り浸り、余った豚足をもらって食べていました。
学校では韓国・朝鮮人への差別が激しかったですが、母親は一切差別的なことを言わなかったため、東山紀之さんも偏見を持ちませんでした。
また、東山紀之さんは生後8ヶ月の時に祖父から熱湯をかけられて火傷をしました。
その時の火傷の影響で左足が変形してしまい、赤ちゃんの時は歩いたり立ったりが他の子より遅く、発達状態も悪かったそうです。
今でも時代劇などで雪駄をはくと痛むと言います。
東山紀之のデビューのきっかけは?
1979年、東山紀之さんが小学校6年生の時、母親が勤めていたNHKの職員用の美容室のコネで、当時人気だった歌番組「レッツゴーヤング」の公開収録のチケットをもらいました。
川崎から渋谷まで観覧に来ていた東山紀之さんは、渋谷のスクランブル交差点で信号を待っていた時に、車の中からジャニー喜多川さんに声を掛けられました。
身長150センチほどで丸刈り頭にジャージ姿だった東山紀之さんを、あれだけ多くの人が行き来する渋谷のスクランブル交差点の中から見つけるとは、さすがジャニーさんですね。
ジャニーさんの名刺をもらったものの、芸能界には興味がなく、断ろうとした東山紀之さんでしたが、失礼にならないように、食事だけはすることになりました。
しかし、車酔いで気分が悪くなってしまった妹さんが、ジャニーさんの高級外車の中で吐いてしまいました。
結局ジャニーさんを自宅に招待して寿司を食べ、芸能界入りを断った東山紀之さんでしたが、車を汚してしまった謝罪に、後日お菓子を持ってジャニーズ事務所へ。
お詫びだけで帰るつもりが、レッスンの見学に誘われ、試しに踊ってみると、思うように体が動かず、今まで感じたことのない挫折感を味わいました。
そこで負けず嫌いな性格が出て、「ステップができるまで」という期限つきでレッスンに通うようになりました。
その後、少年隊のメンバーとしてデビューし、現在も俳優や司会者として活躍しています。
以上が、東山紀之さんの父親や生い立ち、デビューのきっかけについてのお話でした。
彼は壮絶な過去を乗り越えて、今では多くの人々から愛される存在になりましたね。
東山紀之さんの魅力や活動についてもっと知りたい方は、「カワサキ・キッド」を読んでみてくださいね!